母が同じ長屋のおばちゃんを呼んだ。
おばちゃんは抱きかかえていた猫を「よっしゃ」の掛け声と共に天井裏に放った。
しばらくの時間を経て猫が戻ってきた。私は子供心に猫が鼠を口に加えて戻って来るのかなと思ったが猫は何も加えていなかった。
しかし、「もうこれで大丈夫や」と自慢気に宣言したおばちゃんの言う通り私の家の天井裏に鼠が現れる事は二度と無かった。
私は母に「あのおばちゃん何屋さんなん?」と聞いた。
母は「猫貸し屋や」と答えた。
はたして、その時のおばちゃんの職業が母の言う通り猫貸し屋だったのかどうかはともかく私が生まれた長屋にはそのような商売が存在していても不思議でない土壌と街の雰囲気を醸し出していた。
私の父はステーキ屋を経営するとき長屋を隔てて溝川の向こうに有った精肉点に肉の交渉
に出かけた。
なかば恫喝気味に肉の仕入れ値を決めて帰った。
日本人でありながら被差別を余儀なくされていた溝川の向こうの人たちと私たち朝鮮長屋の住民が同居していた街が私の生まれた街であった。
長屋の何件かの家には昼間を過ぎると多くの酒臭い大人連中がたむろしていた。
飲食店でもないのにマッコリを出し兵庫県特有のホルモンのアゴスジを焼いた臭いが漂う
それらの何件かの家は賭場であった。
父はそういう長屋で育ち長屋と自らの血の気性を受け継ぎながらも、この世の掃き溜めのような朝鮮長屋の雰囲気とはほど遠いお洒落で粋な遊び人でもあった。
小さな私を肩にかつぎながらミナミや阪神尼崎を飲み歩いた父は、イタリアンレストランから、寿司屋、韓国サパークラブ、酒屋の立ち飲み屋と飲食の幅の広い人間であった。
又、ミナミに出たときは父は馴染みのテーラーに立ち寄り新しいスーツを新調するのが常であった。
シャツの襟を上質感溢れる生地のスーツの襟に重ね、ミナミを闊歩する父は私の憧れであった。
私がスーツという男特有の不思議な色気を知ったのはその時からである。
その頃アントニオ猪木が父と同じような着こなしをしていた。
シャツの襟をジャケットに重ね高級感溢れる格好で公の場に現れるアントニオ猪木も
私にとっては父と同じく憧れの存在になりつつあった。
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