私が子供の頃は、小学校に入る前より、もう、親の庇護など無かったものであった。
実際、幼稚園の年長組になると、送迎バスから降りた私は、長屋からの行動半径をどんどん広げだしていった。
夜には幼稚園児の身で立ち飲み屋で大人たちの群れで私だけの特別なメニューを頂いていた。
私がはっきり覚えているのは、立ち飲み屋で、くだを巻く大人たちの会話を聞いた時の、幼稚園児の私の思考だ。
幼いと思ったのだ。
実際に幼いという言葉など知りはしない幼稚園児が感じた思考に、四十の私が悪戯な読書で覚えた言葉の中から適合するものを必死に探し出すほどの必要も無く、あの時、大人たちを幼いと思った私の思考をはっきりと思い出せるのだ。
そうだからと言って私が異様に大人びた幼稚園児だったわけでは無い。
ただ、6歳にも満たない私からしても、日焼けした労働者たちの話す内容が幼く聞こえただけだ。
立ち飲み屋での私の夕食代は、母親がひと月ごとに私の料金を支払っていたのか、あるいは、どんなに宗右衛門町や阪神尼崎のサパークラブやラウンジで遊び、焼き肉か寿司をたらふく平らげてきたところで、毎日の締めを長屋の立ち飲み屋で終えなければ気が済まなかった父がその日その日に支払っていたのかは私は知らない。
立ち飲み屋に行かなかった日は、お好み焼き屋に出向いた。
冷や飯を持っていけば、焼き飯も作ってくれた。
尼崎のお好み焼きは載せ焼きである。
神崎川一つ挟んだ向こうの大阪の混ぜ焼きとは異なる、薄い生地に具を載せる焼き方であった。
私が好んだ具は油かすであった。
そのお好み焼き屋は、おばちゃんが死んだ後、店は無くなったが、もう一つ隣にあった店は今も繁盛している。
そういえば昨年その店に出向いたとき、昨日、大阪府知事になった男の写真とサインが飾られていた。
その男が、長屋の味を、都合良く、庶民の味だと納得しながら美味しそうに味わったのかと思うと腹立ってしまった。
南森町で勤務している時、暇を見つけて大川に出向いた。
軍需工場の跡地を眺めながら、アパッチ族の事を、ふと思い出した。
アパッチ族はどんな家に住んでいたのであろう?
トタンの長屋で生まれた記憶が、そんな気持ちを連想させた。
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