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2008年02月16日

西中島南方から新大阪まで

私の父の会社は新大阪に本社が在った。
阪急沿線に住む私は阪急「西中島南方」の駅を降り、新大阪まで歩いて、父の会社に向かうのが常であった。
「西中島南方」を降り、風俗の呼び込みをほんの数分、無視して歩くと、早速始まる無機的な静かな道のりの中を黙って歩いた。

しかし、それがどんな道のりであったか、私は忘れてしまった。
覚えているのは中堅どころのホテルが在った事、そして、ホテルを越えると、JR新大阪の駅を、どのようにして越えるかを考えるややかしさを覚えた私の心内であった。

父の会社に着くと、早速、父の自慢話が始まった。
成人している私の頭をなでながら、「こいつは5歳のときに連れて行った韓国クラブのお姉ちゃんを見て、あそこを立てよったんや」と最初の挿話を堅気の社員たちに大声で伝えた後、私がレスリングに夢中になって取り組んでいる事、堅い仕事に就いてる事、真面目な事、酒に強い事、適当に遊び人である事を延々と語り続けた。
それは父が亡くなるまで5年続いたいつもの光景であった。

いつも最後に付け加える言葉があった。
「わしがこの世で怖いのは、こいつだけや」というお決まりの台詞であった。

私にすれば成人に達する前に既に土建ヤクザの小さな組織の長であった父の口から、私を怖いという言葉を聞くのは、何度聞いても分からない、不思議な台詞であった。

私が子供の頃、父の兄が、半ば強制的に、自分の子供を私の家に住まわせた。
いかに父が怖い者知らずの男であっても、悲しい事に、私の一族で年長者に逆らえる者誰一人いてなかった。

私の伯父さんが手放した、私の従兄弟のお兄さんは、14歳の年齢で出来る限りの悪さをし尽くした。
バイクの後ろに私を乗せ、夜の街を走り抜けた。
田んぼの中をバイクで走り抜け、足を引きずる年寄りを嘲笑った。
鶏小屋の鍵と戸を開け、数えきれない数の鶏を広大な田んぼに放った従兄弟は、その年寄りのこれ以上ない怒りの形相を快楽の道具として、バイクの後ろの私の両手を自分の胴に強く絡ませながら、どこまでもバイクを走らせた。

煙草を私に買いにいかせていた従兄弟に、私の母が気づいた。
私の母は何も言わなかったが、武庫川での乱闘キャンプに私を連れて行った時は、さすがに父に伝えた。

父が従兄弟を制裁した。
私が初めて見た暴力の原体験であった。

頬を引きちぎんばかりに握りながら、唾を飛ばしながら、父はひたすら従兄弟をののしり平手を数十回は食らわせ続けた。
従兄弟が「堪忍して下さい」と泣きながら媚びた後、父は従兄弟の身体をこれ以上無いくらい強く抱きしめた。

自分の兄からの依頼を忠実に遂行した父は、従兄弟を、後の名古屋の実業家に至るまで育て上げた。
あくまで表向きの実業家である。
成人してから合う従兄弟は、一目見て堅気の人間ではなかった。

それでも従兄弟は私を怖がっていた。
父の血を持ち、かつ、レスリングという闘う競技に没頭してきた私を恐れていたのだ。

私は従兄弟こそ、父の息子であるべきだと、思いつつ、世の中に法律があるから守られているのは実はヤクザだという父の言葉を思い出した。

法律があるからヤクザが威勢を張っていける現実を知っていたのは、しがない土建ヤクザの私の父でしかなかった。

父の会社のある新大阪から東京に出発した。
ルールのある競技で惨敗した私の戻る場所は、新大阪を経なければならなかった。

父の会社についた私が、レスリングを諦め、父の会社を継がして欲しいといった途端、父が血相を変えて私に言った。

レスリングという場所で一番に慣れない人間にワシの会社が継げるかと言った父の本意が、私にくらいは堅気の世界を全うして欲しいという願いである事が充分すぎるほど分かった。

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posted by shingol at 16:42| 大阪飲食ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする