私にとっては、アントニオ猪木が演じ続けてくれたフィクションの世界と、駅のホームで携帯電話を耳に当てながら、深い礼を行なう営業マンは同じ世界である。
形こそ気持ちを呼び、動詞の感情を他者に与えるものだと思っているからだ。
携帯の向こう側に頭を下げるサラリーマンが、少なくとも、鼻をほじりながら、足を組み、上の空で、相手に調子の良い事をいっているわけでは無い。
愛情に盲目的な人間なパターンはいつの世も同じである。
心の中の本心だけを絶対化し、求め続けるのだ。
結果、人の心の中の絶対的な真実の気持ちだけを求め、真実とは程遠い部分への、失望が、孤独を呼び、愛の失望を感じさせるものだ。
しかし所詮、人の真実等、絶対的な利己主義の原則に基づいているものである。
そういう人の真実だけを追い求め続けるのが、今の世の愛の形だ。
しかし、人間には、群れをなす、ほ乳類としての絶対的な分配欲求が在る。
その分配欲求に基づいて、全てのほ乳類は他者を必至に舐め、動詞の愛を表現しようとする。
絶対的な無償の愛等、自分の分身の子供たちにしか有り得ないのに、人は皆、他者に親のような絶対的な真実の愛を求める。
人の世界で、分配欲求は他者への愛情表現、すなわち動詞の愛に昇華したのに、いまだ親の愛を他者に求める悲しい人たちがいる。
人間等基本的に乳離れした時から、孤独な存在である。
孤独だから、他者を必要とし、必要とした他者に、動詞の愛を伝えようとする。
遥か昔は、自分の餌を他者に与えていた分配欲求という愛の源が、何故、いつごろから、他者からの絶対的な愛を求めるようになったかは私は分からない。
自分の感情が常に優先し、他者からの愛ばかり求める人たちに、アントニオ猪木がフィクションとして動詞としての勇気・愛・英雄像を伝えてくれた姿の理解等出来はしないであろう。
私の父が私に読めと勧めてくれた李白の詩の世界を偶然、前田日明が好きだった事は驚いた。
他者との絶対的な距離感と孤独の中で、月を綺麗と思える共通点だけで、他者との中に刹那的な共感を見つけ、そして孤独からの解放を夢見た、私の父と前田の似た想いであると私は思った。
だからこそ人には優しくすべきだ。
貴方より肩身の狭い人がいるのなら、常に声をかけてあげるべきだ。
元気にしてるか?
どうや調子は?
肝心なのは、自分より強い思えると人間に対してである。
どうですか?調子は?
常に言ってあげてください。
そういう人は常に実は貴方より弱く、重い負荷のかかった人たちである。
自分が強い人間であれ、弱い人間であれ、人の熱量のこもった優しさに気持ちを動かされない人間はいない。
それが真実の気持ちであれ、どうであれ、それがほ乳類の分配欲求から昇華した絶対的な他者への愛の姿なのであるから。
愛とは隠した心の中にあるものでは無い。
私はアントニオ猪木が身を削って私に与えてくれた動詞の愛を持って、人に優しいと言ってもらえる人間になれた。
それはアントニオ猪木がフィクションであれ、どうであれ、完全な動詞の愛の世界を私に見せつけてくれたからだ。
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