私の父の会社は新大阪に本社が在った。
阪急沿線に住む私は阪急「西中島南方」の駅を降り、新大阪まで歩いて、父の会社に向かうのが常であった。
「西中島南方」を降り、風俗の呼び込みをほんの数分、無視して歩くと、早速始まる無機的な静かな道のりの中を黙って歩いた。
しかし、それがどんな道のりであったか、私は忘れてしまった。
覚えているのは中堅どころのホテルが在った事、そして、ホテルを越えると、JR新大阪の駅を、どのようにして越えるかを考えるややかしさを覚えた私の心内であった。
父の会社に着くと、早速、父の自慢話が始まった。
成人している私の頭をなでながら、「こいつは5歳のときに連れて行った韓国クラブのお姉ちゃんを見て、あそこを立てよったんや」と最初の挿話を堅気の社員たちに大声で伝えた後、私がレスリングに夢中になって取り組んでいる事、堅い仕事に就いてる事、真面目な事、酒に強い事、適当に遊び人である事を延々と語り続けた。
それは父が亡くなるまで5年続いたいつもの光景であった。
いつも最後に付け加える言葉があった。
「わしがこの世で怖いのは、こいつだけや」というお決まりの台詞であった。
私にすれば成人に達する前に既に土建ヤクザの小さな組織の長であった父の口から、私を怖いという言葉を聞くのは、何度聞いても分からない、不思議な台詞であった。
私が子供の頃、父の兄が、半ば強制的に、自分の子供を私の家に住まわせた。
いかに父が怖い者知らずの男であっても、悲しい事に、私の一族で年長者に逆らえる者誰一人いてなかった。
私の伯父さんが手放した、私の従兄弟のお兄さんは、14歳の年齢で出来る限りの悪さをし尽くした。
バイクの後ろに私を乗せ、夜の街を走り抜けた。
田んぼの中をバイクで走り抜け、足を引きずる年寄りを嘲笑った。
鶏小屋の鍵と戸を開け、数えきれない数の鶏を広大な田んぼに放った従兄弟は、その年寄りのこれ以上ない怒りの形相を快楽の道具として、バイクの後ろの私の両手を自分の胴に強く絡ませながら、どこまでもバイクを走らせた。
煙草を私に買いにいかせていた従兄弟に、私の母が気づいた。
私の母は何も言わなかったが、武庫川での乱闘キャンプに私を連れて行った時は、さすがに父に伝えた。
父が従兄弟を制裁した。
私が初めて見た暴力の原体験であった。
頬を引きちぎんばかりに握りながら、唾を飛ばしながら、父はひたすら従兄弟をののしり平手を数十回は食らわせ続けた。
従兄弟が「堪忍して下さい」と泣きながら媚びた後、父は従兄弟の身体をこれ以上無いくらい強く抱きしめた。
自分の兄からの依頼を忠実に遂行した父は、従兄弟を、後の名古屋の実業家に至るまで育て上げた。
あくまで表向きの実業家である。
成人してから合う従兄弟は、一目見て堅気の人間ではなかった。
それでも従兄弟は私を怖がっていた。
父の血を持ち、かつ、レスリングという闘う競技に没頭してきた私を恐れていたのだ。
私は従兄弟こそ、父の息子であるべきだと、思いつつ、世の中に法律があるから守られているのは実はヤクザだという父の言葉を思い出した。
法律があるからヤクザが威勢を張っていける現実を知っていたのは、しがない土建ヤクザの私の父でしかなかった。
父の会社のある新大阪から東京に出発した。
ルールのある競技で惨敗した私の戻る場所は、新大阪を経なければならなかった。
父の会社についた私が、レスリングを諦め、父の会社を継がして欲しいといった途端、父が血相を変えて私に言った。
レスリングという場所で一番に慣れない人間にワシの会社が継げるかと言った父の本意が、私にくらいは堅気の世界を全うして欲しいという願いである事が充分すぎるほど分かった。
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2008年02月16日
2008年02月02日
天満の中国人、この国で生まれた幸せ
天満市場は、薄暗い通路に無国籍感漂う商店が群れをなしていた戦後の闇市の名残が残る市場であった。
何年前であったか、改装され、奇麗なショッピングセンターと化すかと思ったが、建物は奇麗になっても、周りの街並の雰囲気はなかなか消えないものである。
私は少しホッとした。
天満市場の周りには、片言の中国人の店員がいる飲食店が多い。
十数年前であれば、古くからの在日中国人以外の片言の中国人の店員等、中華料理屋で見かけるくらいであったが、最近では中華料理屋よりも串カツ屋、焼き鳥屋などで、より見かけるようになった気がする。
広島焼きの店で、中国人の若い娘が鉄板の前に立ち、上手に、生地をひっくり返していたのも見た事がある。
私が知る限りでは天満の中国人は実は朝鮮族が多いという事であったが、確かではない。
昔、大江健三郎が、戦前アメリカに渡った日本人たちに対して、「彼らは群れをなしている」と馬鹿な批判を行った事があった。
群れをなそうが、なさまいが、外国に渡った人たちの連帯感や孤独を「群れをなす」という言葉で片付ける大江健三郎の言葉は私には理解出来なかった。
にんにく、いわし、すじ、こんにゃく、どて…串カツ屋で中国人の店員が片言の日本語でオーダーを復唱していた。
中国人の多いこの繁華街でも、彼らが対するのは日本の酔客である。
日本語の教科書に載っていない市井の言葉を日々繰り返す彼らが、日本を好きでも嫌いでもどっちでも良いのだが、日本で過ごす日々が少しでも忘れられない想い出に成ってもらいたいと私は思った。
串カツ屋で中国人の店員に生ビールの追加を頼む際、朝鮮族の彼らにハングゥマルが伝わるか試したくなった。
「センメッチュチュセヨ」と片言の韓国語で話しかけた私に「ハイ、ナマビールデスネ」と中国人の店員は微笑んだ。
彼らが朝鮮族かどうかは、もう関係なかったが、ふと祖父母の事が頭に浮かんだ。
日本に渡ってきてくれてありがとう。
ハラボジ、ハルモ二の苦労を想像しながら、この国で生まれた幸せに感謝し生ビールを飲み干した。
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何年前であったか、改装され、奇麗なショッピングセンターと化すかと思ったが、建物は奇麗になっても、周りの街並の雰囲気はなかなか消えないものである。
私は少しホッとした。
天満市場の周りには、片言の中国人の店員がいる飲食店が多い。
十数年前であれば、古くからの在日中国人以外の片言の中国人の店員等、中華料理屋で見かけるくらいであったが、最近では中華料理屋よりも串カツ屋、焼き鳥屋などで、より見かけるようになった気がする。
広島焼きの店で、中国人の若い娘が鉄板の前に立ち、上手に、生地をひっくり返していたのも見た事がある。
私が知る限りでは天満の中国人は実は朝鮮族が多いという事であったが、確かではない。
昔、大江健三郎が、戦前アメリカに渡った日本人たちに対して、「彼らは群れをなしている」と馬鹿な批判を行った事があった。
群れをなそうが、なさまいが、外国に渡った人たちの連帯感や孤独を「群れをなす」という言葉で片付ける大江健三郎の言葉は私には理解出来なかった。
にんにく、いわし、すじ、こんにゃく、どて…串カツ屋で中国人の店員が片言の日本語でオーダーを復唱していた。
中国人の多いこの繁華街でも、彼らが対するのは日本の酔客である。
日本語の教科書に載っていない市井の言葉を日々繰り返す彼らが、日本を好きでも嫌いでもどっちでも良いのだが、日本で過ごす日々が少しでも忘れられない想い出に成ってもらいたいと私は思った。
串カツ屋で中国人の店員に生ビールの追加を頼む際、朝鮮族の彼らにハングゥマルが伝わるか試したくなった。
「センメッチュチュセヨ」と片言の韓国語で話しかけた私に「ハイ、ナマビールデスネ」と中国人の店員は微笑んだ。
彼らが朝鮮族かどうかは、もう関係なかったが、ふと祖父母の事が頭に浮かんだ。
日本に渡ってきてくれてありがとう。
ハラボジ、ハルモ二の苦労を想像しながら、この国で生まれた幸せに感謝し生ビールを飲み干した。
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2008年01月28日
トタンの長屋とアパッチ族
私が子供の頃は、小学校に入る前より、もう、親の庇護など無かったものであった。
実際、幼稚園の年長組になると、送迎バスから降りた私は、長屋からの行動半径をどんどん広げだしていった。
夜には幼稚園児の身で立ち飲み屋で大人たちの群れで私だけの特別なメニューを頂いていた。
私がはっきり覚えているのは、立ち飲み屋で、くだを巻く大人たちの会話を聞いた時の、幼稚園児の私の思考だ。
幼いと思ったのだ。
実際に幼いという言葉など知りはしない幼稚園児が感じた思考に、四十の私が悪戯な読書で覚えた言葉の中から適合するものを必死に探し出すほどの必要も無く、あの時、大人たちを幼いと思った私の思考をはっきりと思い出せるのだ。
そうだからと言って私が異様に大人びた幼稚園児だったわけでは無い。
ただ、6歳にも満たない私からしても、日焼けした労働者たちの話す内容が幼く聞こえただけだ。
立ち飲み屋での私の夕食代は、母親がひと月ごとに私の料金を支払っていたのか、あるいは、どんなに宗右衛門町や阪神尼崎のサパークラブやラウンジで遊び、焼き肉か寿司をたらふく平らげてきたところで、毎日の締めを長屋の立ち飲み屋で終えなければ気が済まなかった父がその日その日に支払っていたのかは私は知らない。
立ち飲み屋に行かなかった日は、お好み焼き屋に出向いた。
冷や飯を持っていけば、焼き飯も作ってくれた。
尼崎のお好み焼きは載せ焼きである。
神崎川一つ挟んだ向こうの大阪の混ぜ焼きとは異なる、薄い生地に具を載せる焼き方であった。
私が好んだ具は油かすであった。
そのお好み焼き屋は、おばちゃんが死んだ後、店は無くなったが、もう一つ隣にあった店は今も繁盛している。
そういえば昨年その店に出向いたとき、昨日、大阪府知事になった男の写真とサインが飾られていた。
その男が、長屋の味を、都合良く、庶民の味だと納得しながら美味しそうに味わったのかと思うと腹立ってしまった。
南森町で勤務している時、暇を見つけて大川に出向いた。
軍需工場の跡地を眺めながら、アパッチ族の事を、ふと思い出した。
アパッチ族はどんな家に住んでいたのであろう?
トタンの長屋で生まれた記憶が、そんな気持ちを連想させた。
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実際、幼稚園の年長組になると、送迎バスから降りた私は、長屋からの行動半径をどんどん広げだしていった。
夜には幼稚園児の身で立ち飲み屋で大人たちの群れで私だけの特別なメニューを頂いていた。
私がはっきり覚えているのは、立ち飲み屋で、くだを巻く大人たちの会話を聞いた時の、幼稚園児の私の思考だ。
幼いと思ったのだ。
実際に幼いという言葉など知りはしない幼稚園児が感じた思考に、四十の私が悪戯な読書で覚えた言葉の中から適合するものを必死に探し出すほどの必要も無く、あの時、大人たちを幼いと思った私の思考をはっきりと思い出せるのだ。
そうだからと言って私が異様に大人びた幼稚園児だったわけでは無い。
ただ、6歳にも満たない私からしても、日焼けした労働者たちの話す内容が幼く聞こえただけだ。
立ち飲み屋での私の夕食代は、母親がひと月ごとに私の料金を支払っていたのか、あるいは、どんなに宗右衛門町や阪神尼崎のサパークラブやラウンジで遊び、焼き肉か寿司をたらふく平らげてきたところで、毎日の締めを長屋の立ち飲み屋で終えなければ気が済まなかった父がその日その日に支払っていたのかは私は知らない。
立ち飲み屋に行かなかった日は、お好み焼き屋に出向いた。
冷や飯を持っていけば、焼き飯も作ってくれた。
尼崎のお好み焼きは載せ焼きである。
神崎川一つ挟んだ向こうの大阪の混ぜ焼きとは異なる、薄い生地に具を載せる焼き方であった。
私が好んだ具は油かすであった。
そのお好み焼き屋は、おばちゃんが死んだ後、店は無くなったが、もう一つ隣にあった店は今も繁盛している。
そういえば昨年その店に出向いたとき、昨日、大阪府知事になった男の写真とサインが飾られていた。
その男が、長屋の味を、都合良く、庶民の味だと納得しながら美味しそうに味わったのかと思うと腹立ってしまった。
南森町で勤務している時、暇を見つけて大川に出向いた。
軍需工場の跡地を眺めながら、アパッチ族の事を、ふと思い出した。
アパッチ族はどんな家に住んでいたのであろう?
トタンの長屋で生まれた記憶が、そんな気持ちを連想させた。
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2007年12月19日
感情と言葉
女と待ち合わせする時は、梅田の阪急百貨店の前が多かった。
高級感こそ非日常感でもあるので、私はその高級感最たる場所である阪急百貨店が昔から好きであった。
少し遅れて到着すると、私に気づいた女は、映画「ブラックレイン」にも登場した大きな円柱の陰に急いで身を隠した。
私はその姿が、とても可愛く女性らしく思えたので、その日のデートは気持ちの良いまま終える事が出来そうだった。
梅田の阪急東通りを歩いてる最中、誤って、私が別の女と入った店の名前を出してしまった。
こういう場合は「おまえと一緒に行った」と言い張るしか手は無かったが、明らかに女の機嫌が悪くなっていった。
しかし女は明らかに機嫌が悪くなっている時でさえ、必要以上に澄ました口調で、平然を装うとする生き物である。
「別に」「怒ってないよ」という言葉を吐く口調がお笑いの演技のように澄まし過ぎているのだから、つくづく女というのは幼い生き物なのである。
男とて同様である。
男のプライドとやらが、本当に言いたい、本当に聞きたい事を伝えず、違う形でのイライラに変化してしまう。
もし、多くの恋人たちが「私はこういうことで気分を害した。私の感情を治める言葉を欲しい」と素直に言い合えたら、誰も恋愛の遍歴など繰り返さないであろう。
多くの恋人たちが、自分の感情を客観的にとらえ、言葉で伝える大切さを無くしてしまっている。
感情のありようをそのまま冷静な言葉でストレートに伝えれば良いのに、ストレートに、素直に、伝える事に抵抗が有るのか、違う言葉や行動で伝えようとするからおかしくなるのだ。
誰もが、平和で、言葉のいらなかった赤ん坊の時代を恋人にまで求めているのだろうか?
ギャーと泣くだけで、親たちが、何を伝えているかを必死に理解しようとしてくれた時代が忘れられないのか、皆、感情を言葉にする作業をおろそかにしているような気がしてしまう。
感情そのままで行動すれば赤ん坊と同じである。
しかし感情を、大人の言葉で伝えれば、感情は奇麗にラッピングされた美しい愛情表現となる。
感情を言葉で伝えないから、感情的な人間になるのだ。
多くの人は感情を言葉でなく、時に感情の本心とは別の態度や別の言葉で示そうとする。
感情こそ言葉でしか伝えられないし、言葉でしか昇華できないにも関わらずである。
人間の最大の喜びは求められている自分である。
淋しいとき、勇気を出して、プライドを捨てて、淋しいといってあげる事が相手への最大のプレゼントである。
淋しいと素直に言えなくなったとき、人は皆、独占欲と妄念に支配されてしまうのにだ。
かといって淋しいと相手を困らせてもいけない。
淋しいという言葉は、自分のためではなく、相手のためにあるのだから。
私は結局、女と、初めての居酒屋に入った。
澄まして可愛げの無い態度が続いたが、アルコールでほぐれたのか、自分の感情を冷静に伝えてくれだした。
「ワタシハ オコッテマスヨ アナタガ ワタシト イッタコトガ アルト カンチガイシタカラデス」
「ワタシノ プライド ガ ハラタチマシタ」
つたない日本語で自分の感情を言葉で伝えてくれたオーストラリア人の女と焼き鳥を食べながら、私は今夜は女を喜ばせてあげたいと思い、お初天神にある「ピッグ&ホイッスル」というアイリッシュバーに連れて行った。
外国の水っぽいビールは口に合わなかったが、魚のスカスカの揚げ物を、焼き鳥を食べるときの倍は美味しそうに食べる女の表情がいじらしく、気持ちよい酔い方が出来た。
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高級感こそ非日常感でもあるので、私はその高級感最たる場所である阪急百貨店が昔から好きであった。
少し遅れて到着すると、私に気づいた女は、映画「ブラックレイン」にも登場した大きな円柱の陰に急いで身を隠した。
私はその姿が、とても可愛く女性らしく思えたので、その日のデートは気持ちの良いまま終える事が出来そうだった。
梅田の阪急東通りを歩いてる最中、誤って、私が別の女と入った店の名前を出してしまった。
こういう場合は「おまえと一緒に行った」と言い張るしか手は無かったが、明らかに女の機嫌が悪くなっていった。
しかし女は明らかに機嫌が悪くなっている時でさえ、必要以上に澄ました口調で、平然を装うとする生き物である。
「別に」「怒ってないよ」という言葉を吐く口調がお笑いの演技のように澄まし過ぎているのだから、つくづく女というのは幼い生き物なのである。
男とて同様である。
男のプライドとやらが、本当に言いたい、本当に聞きたい事を伝えず、違う形でのイライラに変化してしまう。
もし、多くの恋人たちが「私はこういうことで気分を害した。私の感情を治める言葉を欲しい」と素直に言い合えたら、誰も恋愛の遍歴など繰り返さないであろう。
多くの恋人たちが、自分の感情を客観的にとらえ、言葉で伝える大切さを無くしてしまっている。
感情のありようをそのまま冷静な言葉でストレートに伝えれば良いのに、ストレートに、素直に、伝える事に抵抗が有るのか、違う言葉や行動で伝えようとするからおかしくなるのだ。
誰もが、平和で、言葉のいらなかった赤ん坊の時代を恋人にまで求めているのだろうか?
ギャーと泣くだけで、親たちが、何を伝えているかを必死に理解しようとしてくれた時代が忘れられないのか、皆、感情を言葉にする作業をおろそかにしているような気がしてしまう。
感情そのままで行動すれば赤ん坊と同じである。
しかし感情を、大人の言葉で伝えれば、感情は奇麗にラッピングされた美しい愛情表現となる。
感情を言葉で伝えないから、感情的な人間になるのだ。
多くの人は感情を言葉でなく、時に感情の本心とは別の態度や別の言葉で示そうとする。
感情こそ言葉でしか伝えられないし、言葉でしか昇華できないにも関わらずである。
人間の最大の喜びは求められている自分である。
淋しいとき、勇気を出して、プライドを捨てて、淋しいといってあげる事が相手への最大のプレゼントである。
淋しいと素直に言えなくなったとき、人は皆、独占欲と妄念に支配されてしまうのにだ。
かといって淋しいと相手を困らせてもいけない。
淋しいという言葉は、自分のためではなく、相手のためにあるのだから。
私は結局、女と、初めての居酒屋に入った。
澄まして可愛げの無い態度が続いたが、アルコールでほぐれたのか、自分の感情を冷静に伝えてくれだした。
「ワタシハ オコッテマスヨ アナタガ ワタシト イッタコトガ アルト カンチガイシタカラデス」
「ワタシノ プライド ガ ハラタチマシタ」
つたない日本語で自分の感情を言葉で伝えてくれたオーストラリア人の女と焼き鳥を食べながら、私は今夜は女を喜ばせてあげたいと思い、お初天神にある「ピッグ&ホイッスル」というアイリッシュバーに連れて行った。
外国の水っぽいビールは口に合わなかったが、魚のスカスカの揚げ物を、焼き鳥を食べるときの倍は美味しそうに食べる女の表情がいじらしく、気持ちよい酔い方が出来た。
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